75年前の8月15日が終戦の日だった。戦没者310万人の犠牲者があったが、今日の正午に全国戦没者追悼式が例年の如く両陛下のご臨席を賜り厳かに哀悼の意がNHKで放送された。

 75年前は私は満5歳の時だったが今でもその終戦日を覚えている。疎開先の長野県伊那平の農家の世話になっていた時、村の集会所で村人と共に母親が陛下の玉音放送を聞き、日本が戦争に負けたと涙ながらに話してくれた。それを聞いて私は子供ながら心の中で東京にそのうち帰れるのではと思い喜んだ。
 5月の東京最後の空襲日に我が家と隣の家の間に焼夷弾が落ちて我が家は消失してしまった。住む所が無くなり昔から縁のあった長野県の知り合いのところへ疎開したのだった。住宅地の千住高砂町で焼けたのはこの2軒だけであった。
 東京に住む所を兄と姉が見つけた9月に帰るまで田舎暮らしを母と足の悪い身障者の兄と続けた。都会人にとっては田舎暮らしは心地好いものではなかった。
 千住高砂町と国道4号線を挟んで向こう側の千住八千代町と梅田方面は全て焼け払われて焼け跡になってしまっていた。この地域には家内工業があり、米軍は綿密な空襲をしていた。戦後になって2.3年は焼け跡にバラック小屋が数軒は見られたがしばらくは焼け跡が私らの遊び場になっていた。
 焼け跡をほじくり返すと色んな物が出てきた。それを持ち帰り、使えるように直したり、磨いたりすると母親が喜んで使ってくれた、自分で改造したおもちゃを隣の小父さんに見せたら、「寛ちゃん頭いいな、大きくなったら小父さんとおもちゃ工場をやらないか」と言われた。その言葉が未だに頭に残っている、私のモノづくりの原点はその辺にあるのではないかと思う。
 証券会社に10年いたが、私のモノづくりへの心が足立区に帰らせたのだろうと思っている。