8月15日は日本の終戦記念日でした。天皇陛下の玉音放送が74年前に有りました。私が5歳の頃東京空襲最後の日に私は母親と空襲警報を聞き、千住高砂町に有った我が家を出て東武線五反野駅の駅の向こう側に避難をしました。駅の向こう側は住宅はほとんどなく畑が広がっていたのでそれまでも何回か空襲警報が解除されるまで避難したことが有りました。
 その日は高射砲陣地の砲撃が激しく、炸裂した砲弾のかけらが降ってくるので敷布団をかざして逃げていきました。五反野駅の手前が稲の苗床の田圃があり、道路から4、5メートル先に焼夷弾が落下しましたが、田圃の柔らかい所だったので轟音を上げて大きな火柱が立ちました。親子で腰が抜けたように伏せました。もし硬い道路に落ちていたなら私等親子は油火を被って命は無くなっていたでしょう。まさに命拾いしたのでした。5歳の私でしたが非日常的な経験なので鮮明に覚えています。
 空襲警報が解除になり、家に戻ったのですが、私の家と両隣が焼けてしまっていました。家には足を悪くした手術後の兄を一人置いて逃げたのですが、兄ははいばって外に出たのを近所の人に助けられてました。私は知らない人の家でしたが蝋燭の火で兄が横たわっていたのが見えて安堵したのを覚えてます。
 数日後、空襲保険の金を手に出来たので長女と長兄と直ぐ上の兄3人は東京に残り、私と母と足の悪い兄3人は東京に居るのは危険だと親しい近所の人がリヤカーに兄を乗せ、上野駅まで送って呉れ、上野から中央線の長野辰野駅で飯田線に乗り換え北殿と言う駅まで連れて行ってくれました。
 北殿には昔我が家に世話になったと言う大きな農家の人が居てその人の家の農機具の倉庫の片隅に4畳半くらいの所に住まわせてもらいました。
 その疎開先で8月15日に大切な放送が有ると言って村の集会場に母親が聞きに行き、玉音放送を聞き日本は戦争に負けたと言ってもう空襲は無いと安堵したようでした。
 学童疎開で松代にいた姉が病気になったのを疎開先に引き取り、私は迎えに来た兄と一足先に東京に戻りました。
 東京の住まいは長姉と次兄が大和交通に勤めていたのでその会社の持ちものである足立区の小右ェ衛門町にあるガレージ横丁の裏の運転手用の住宅に3人が住まわせてもらっていたので其処が私の住まいにもなりました。
 近辺には同じ年位の子供らも大勢いましたが、直ぐには馴染めない空気が有りました。千住八千代町や梅田の辺りは焼け野原になっていました。その焼け跡をほじくり返すと色んなものが出てきました。やや大きな鉄の車を見付け、その車を付けて箱車にしました。私の遊び場は焼け跡になりました。我が家から焼け跡まではかなり距離が有りましたが、何か役に立ちそうなものは何でも箱車に積んで持ち帰りました。少しすりへっているような砥石も見付け、錆びた包丁や薪割りの刃を見付け砥石で研いで錆を落とし柄は無かったが使えるものにして母親が喜んでくれました。
 焼け跡で見つけたガラス片や金属片、特に真鍮の水道の蛇口など高価に買い入れてくれる仕切屋が西新井消防署の近くにあり小遣いになりました。
 隣の家はガレージをプレス工場にしてバンダイの下請けで、空き缶をドラム缶に苛性ソーダを入れて煮出してラベルを取りピカピカの空き缶にしてました。金魚をプレスで模り子供玩具の如雨露を造ってました。バンダイはこのオモチャで大儲けしたとのちに聞いたことが有ります。
 私が誰も持ってない面白いおもちゃを造って見せたら、隣の小父さんが「カンちゃん、頭がいいなあ、大きくなったら小父さんとオモチャ工場をやろうよ」と褒められました。子供の時のその言葉が脳裏に焼き付き、私がものづくりが好きになったのはその時の言葉が原点になっています。大人でさえ欲しくなる便利なものを創ったり、子供が欲しいと羨ましがるものを創ったりするのが楽しくなりました。
 長い盆休みが終わって今日から仕事が出来る、休み中には横浜に居る娘家族や大阪に居る娘家族も来てくれた。孫たちの成長を見るのは楽しいものだ、一人づつ個性があり目を楽しませてくれる。今年の盆休みは異常気象とも言える程の猛暑だった。以前だったら何処かへ出かける計画を立て普段いけない所に出掛けたもんだが、今年は出掛けることも無く朝から飲んでいることが多かった。今年ほど高校野球を楽しんだこともなかった。大阪の子が憧れている履正社と東京代表の関東第一高の一戦は履正社に完敗だった。大阪と東京の対決だと言って孫とやり取りしていたが、孫からどんなもんだと誇らしげに電話が入った。準決勝と決勝があるが、履正社は決勝に残るのではないかと予想している。星稜高校のピッチャーが凄いので決勝に残るのではないかと予想もしている。