何度もブログに書いたことがあるが、私は元証券マンだった時代が有った。光亜証券と言う会社だったが、野村証券系列のこの会社を勧められたのは当時野村證券の専務だった方からで、野村は出来上がった会社で面白くないが、この会社は先行きが面白いと紹介された。
 私が退社した後に光亜証券は野村系列の八千代証券と野村投信販売会社と合併して国際証券となった。その国際証券も三菱証券と合併し三菱UFJ証券となったが今では三菱UFJモルガンスタンレー証券になっている。
 私は野村証券の専務の縁故入社したようなもので、この専務の顔を潰してはいけないと仕事は頑張った。退職する前に相談に行ったが、光亜証券での私の実績もご存知だったようで、若い時は何にでもチャレンジすると言うのは良い、頑張りなさいと言って励ましてくれた。この専務さんには光亜証券に入社する前に、仕事と言うものは世間との競争だ、負けてはいけませんよと言われたことも有った。この言葉通りに私は世間に負けまいと証券会社では頑張った。
 証券会社時代に光亜証券で頑張った仲間が数年前に東京と大阪に光和会と言うOB会をつくった。私は大阪に6年半、東京に3年ちょと在籍していた。当時の仲間が10年ほどしか居なかった私を招待すると言うのは私の実績が皆の記憶に残っていたからだろう。記録も色々残したと思う。新人の時いきなり300万円と言う大口債券販売をした時は全店に号外が回ったらしい。当時の300万円は今の金額にしたら1億円くらいになると思うが、入社半年前にその数字が出た。当時の営業マンの1人当たりの販売目標は40万円くらいだったのだから皆驚いたに違いない。その後も当たり前のように300万円と言うのが何件か出た。
 一日で債券1万円積み立て預金を23口座契約したのも新記録だったろう。1年満期の割引債の積み立てだから2年目にはその倍の数字になる。積み立て口座も人より多いので毎月の債券販売は楽なもんだった。
 私は同僚と比較にならないほど歩き回った。有望見込み先を200軒積み上げるのを目的にして歩いた。見込み先が顧客になってしまって、200軒を切るとそれを補充するため更に歩いた。一日に5、60軒訪問すると帰社するのが7時か8時になってしまう。新人の私を指導担当する主任が初めは鬼軍曹のような感じだったが、数日で私の体を心配するやさしい人に変身してしまった。
 私は今でも証券会社で頑張った時を思い出す、私の青春時代は大阪だった。その大坂が私を育ててくれたと言う思いがある。懐かしい昔の仲間と再会するのは楽しい。金曜日までに今ある仕事を片付けて土曜日には大阪に向かいたい。