私が5歳の時、我が家は5月の東京空襲で焼失した。その時私と母親と脊髄カリエスを病み自宅養生していた兄3人は遠い縁を頼りに長女と兄二人を東京に残し信州伊那に疎開した。5歳と言う幼少期だったが非日常的な出来事だったので今でも鮮明に当時の事は覚えている。
 家が焼かれたその日の一日だけでも空襲警報が鳴り、ラジオでも敵機来襲を告げていたので母親と安全とされている所まで避難したのも鮮明に覚えている。
 上野駅から中央線で逃げてゆく行を書くだけでも1時間や2時間掛かってしまうだろう。そこいらは置いておいて、8月15日に終戦したのは疎開先の村の集会所で母親が玉音放送を聞き戦争は終わったと知った。直ぐに東京に帰ろうとしたが、私のすぐ上の姉が学童疎開で長野の松代にいたが、当時流行病のパラチフスに罹っており、姉を疎開先に引き取る事になって、姉の病を癒すことになったので、私一人を早めに東京へ帰すことになり、長兄が迎えに来てくれた。
 長女の姉は当時大和交通に勤めていた。当時大和交通はが敵国アメリカ製の自動車を何台も持っており、それを6台駐車するガレージが4棟程あった。戦後しばらくはガレージ横丁とも言われていた。そのガレージの裏にある運転手用の住宅があって、そこを会社が購入する手立てをしてくれたのだった。
 疎開先でも、ここでも初めは嫌が応でも新入者はいじめに遭う、いじめに対抗することで自分が強くなってゆく、遊びでも勉強でも近所の奴らには負けなかった。将棋も強かったので近所のオヤジ連中には可愛がられ、夕方には家に招かれ相手をしていたが、オヤジ連中を総ナメにしていた。
 昼間は一人で焼け跡で、此処と思う所を掘り返すと色んなものが出て来て宝の山のようだった。真鍮は特に高く、鉄やガラスなど仕切り屋に持っていくとお金になった。拾ったもので利用できるもので何かと創り、それが大人に褒められる。おもちゃを作ったとき隣のプレス屋の親父さんが「カンちゃん頭が良いな、大きくなったら小父さんと玩具工場をやらないか」と褒められた。その言葉が今でも脳裏に残っている、その言葉が私のものづくり大好き人間にしたのだろう。
 一応の実績を残しサラリーマンを辞し、徒手空拳でものづくりの道を選んだ。生涯現役でものづくりを続けたい。