私は大学を卒業して証券会社に就職した。私の母校の大先輩でもあり、当時の野村証券の専務でもあった人と多少の縁が有った。その方の勧めもあり「光亜証券」と言う会社に応募した。「光亜証券」は野村系列の会社でもあり、その専務は野村はすでに出来上がってしまった会社で面白くない、小さな看板だがこう言う会社を大きくするのが人生は面白いと推薦してくれた。専務の言われた通り、私が退職した後だが「国際証券」となり、今は三菱証券から三菱UFJモルガン・スタンレー証券株式会社となっている。
 私は入社するといきなり大阪勤務となってしまったが、その野村の専務の顔を汚してはいけないと遮二無二に南大阪の街を歩き回った。それこそ同僚や先輩たちにも真似が出来ないくらい歩き回った。そのお蔭でそこそこの営業マンになったのだと思う。大阪での6年半には語りつくせない程の諸々のエピソードがある。
 6年半の経験がそうさせたのだと思うが、東京本店が相模原に新規店を開設すると言う情報を得た、その時新規店で自分を試したい、それに年老いたおふくろの居る東京に戻りたいと言う気持ちが働いたのだろう、転勤を希望してしまった。大阪でそれなりの成績を上げていたので大阪支店としては私の転勤を歓迎してなかったようだったが私の決心は変わらなかった。
 新規店は相模大野駅前の第一勧業銀行の地下街に出来た。隣が散髪屋で前が喫茶店と言う小さな店だったが、私が退職後野村系列の3社が合併し国祭証券になった。その後も合併を繰り返し今では三菱UFJモルガン・スタンレー証券株式会社になっている。
 当時平社員が大阪から東京に転勤するなどと言う事は全くなかった。大阪での実績がそうさせたのだろうと思うが私が住む所を社宅として提供してくれた。当時としては平社員が社宅に一人で住んでいるのは拙かろう.と直ぐ所帯を持てと当時の支店長から言われた。それで所帯を持つつもりでいた女性も居たので直ぐ結婚式を挙げた。
 新規店でも出来る限りの営業活動をしたし後輩も育てたりしたが、3年半経ったら全商品が全店でトップの店に成長した。そこで自分なりの自信が根付いたのだと思うが、何をやっても出来るような気がしてしまった。
 株式市場も調子良く客も会社も儲かっていた。ただ数か月で天井を打つだろうと私は予測していた。そんな時に退職願を出した。特に対外的にも問題もなく、営業成績も人をしのぐような結果も出していたのに退社願いを出したので、その遺留作戦には参ったが私の決心は動かなかった。何の痂疲も無く、惜しまれて辞めると言うのもそう悪い気分でもなかった。一人前の人間として育ててくれた「光亜証券」には感謝以外の何もない。今でも10年しかいなかった私をOB社員として東西のOB会に毎年招待されているが、私としては誇りにさえ思っている。
 私はあまりギャンブル好きの客を歓迎しなかったが、私が株式投資を教えた人の中には大阪市場に影響するような仕手にまで育った人もいた。40年以上経った今でも私を忘れてない高齢のお客さんも居る。そのまま証券界に身を置いていたらどんな人生になっていたか想像もつかないが、経済的には今よりずっとましなものになっていたろう。
 高給取りとは言えないがそれなりの収入が保証されていた世界から収入ゼロの世界に挑んだ。権利と言う形の無いものを扱う世界は私の好みではないと気が付いたのが「相模大野駅前」と言う街でだった。私が子供の時から好きだったのは手触り感のあるものづくりだと気が付いた所でもある。今の仕事も自分が好きで好んだ仕事であることは間違いがない。
 その小田急「相模大野」と言う駅前から近い所に伊勢丹相模原店がある、その店で「下町町工場発!なるほど雑貨&職人展」と言うイベントが20日から25日までの6日間開催される。「足立ブランド」と言う看板を引っ提げて40年ぶりに相模大野に行くことになった。
 証券界と決別した街、人生で初めて家庭を持った街、自分の人生は何がやりたいのか気付かせてくれた街、第2の人生の起点になった街、そんな街に全く姿かたちの違った町工場の親父として行く。少しだけ凱旋するような気分にもなっている。