私は小学校2年くらいからある意味喫煙していた、それは足の悪い兄に代わってタバコに火をつけるのが私の役目になっていたからだ。我が家は母親もタバコを吸っていた、紙芝居を描いている兄など一日に60本は吸っていた。部屋の真ん中に火鉢があり練炭を熾していた、その練炭からタバコに火をつけるのが私の役目みたいになっていた。今ほどタバコが健康に問題が有るとはされていない時代だったから子供に平気で火を点ける位させていたのだと思う。
 当時はタバコも配給制でタバコ屋で売る量も制限があり、毎日並ばなければならなかった、その役目も私が受け持っていた。当初は専売公社も巻きタバコを配給できずに紙と刻んだ葉タバコを別々に日配給していた。タバコ一本を巻く小さなロールの器具があり、紙をセットしタバコの量を適当にしないと直ぐ切腹してしまったり、スカスカのタバコが出来てしまったり結構難しいものだった。上手だとかなんだとかおだてられながら一日に何本もタバコ巻きをさせられていた。手先が器用になったのもこんな事からかも知れない。
 空襲で焼け出され疎開していた信州では蓬の葉を乾燥させて刻んだものをタバコの代わりに兄など吸っていた。それが戦後タバコが配給されるとなると皆行列を作って並ぶのが当たり前になっていた。子供の私の前で目の前で終了になる事が多かった、タバコ屋のアンチャンが強そうな大人の前でココまでといいたくないので、弱い私のような子供の前で、今日はココまでと打ち切られてしまう。空ならびに終るくやしさをいまだ持って忘れられない。今はコンビニに変身しているがあのアンチャンを今でも思い出すのだから余程子供心にも悔しかったのだろう。今でもその店の前を通ると思い出す。当時の商人、特に専売権のあるものを扱う酒屋、タバコ屋などは結構エバって商売をしていた。
 闇市などは個人個人のアイデア次第で何でも物がよく売れていた、物資が無いのであまりまともなものは売られてなかった、タバコなども吸殻を集めて解きほぐし、巻きなおして売っていたようだった。人ごみの中棒の先に針をつけて吸殻を刺して歩くモク拾いはよく見かけたもんだった。
 戦後間もなくはマッチ1本も貴重な代物で朝など火を起こすのに隣から火種を貰ってくるなど当たり前の時代だった。更年期障害で朝起きられない母親に代わって火起こしが私の役目になっていた。
 小さな時からタバコとは縁が深かった私が今タバコを吸わなくなって2週間が経つ、いつでも禁煙宣言が出来るようになったと思う。しかし禁煙するつもりは無い、しばらく休煙するだけのことだ。私がタバコを吸わなくなっただけでもまわりの反応は結構面白い事になっている。