「夢を広げる活字の世界」これはあだち広報10月号の特集である。印刷に携わるものとしては何かピンと来ないものがある。本を読みましょうと啓蒙するために使ったと思われるが、活字は印刷の世界では皆無とは言わないが印刷業界ではほとんど使われなくなっている。新聞も出版物も活字は使われていない、もう少し違う表現がなかったのかしら。足立区には今年直木賞を受賞した朱川湊人さんという若い作家がいる、彼を特集し文化、芸術を標榜する区にしようとの思いからだと思われるが、若い人達に活字という言葉が理解されているだろうか?字が活きているという意味ではうなずけるが。
 同じ印刷物でも私たち視覚的なグラフィックに近いものと内容表現の文章物との違いがある。その差かしらとも思うが活字と言うと昔近所の印刷所で活字を拾っている職人の姿が懐かしく思い出される、活版もほとんど樹脂版に変わっている。あの人たちはその後どうなったのだろうかと気にかかる。
 今日はあだち祭りの打ち合わせがある、「なんでもくん」の体験コーナーについて説明があるので出てきて欲しいと役所から連絡があったので5時に出向かわなければならない。区民がどんな反応をするか今から胸がわくわくする。
 今日も追記に昨日の続きを書いておこう。
 永松さんは「カンボウ」「カンボウ」と言って私を良く可愛がってくれていた、梅島まで蕎麦を食べに連れて行ってくれたのも私が足の悪い兄の介添えをしていることへのご褒美だったように思える。正月には必ず我が家に来てお年玉を「200円」も呉れた、お小遣いが1円2円の時代には大金だった。お正月になると永松さんが来てくれると心が躍った。
 我が家には日銭が入り紙芝居の絵の色付けは毎日現金で支払われるのでいつも金は有った、母親は生粋の江戸っ子で宵越しの金は持たない方なので、毎日のように食い詰めた絵描きや絵描きの卵、売れない芸人、俳優が毎晩のように来たが晩飯を良く振舞っていた。正月になってもこの人達はお年玉を私に呉れたことがない、子供心に軽蔑していた。金の無心に来る人が多く、返しに来る人はあまりいなかったような気がする。良く来て散々お喋りをしてゆくのだがよく「トッキュー」「トッキュー」と言う言葉を良く耳にした、長じて分かったのだが日本共産党の書記長の「徳田球一」のことだった。共産党員になっていた人もいて、子供心に共産党員は不平不満を言い、あまり働かないで私のような子供に気を使うことなく、私の母親を「おばさん、おばさん」とおもねり、平気でご馳走になる貧乏な人たちと理解していた、大きくなっても絶対ああいう人にはなりたくないと思った。母親も「アカ」は嫌いだと言いながら良く面倒を見た、障害者になってしまった兄を当たり前の人として遇してもらえるよう育てたいが為のものだったと思う。そこへ行くと我が家に気を配り兄をいつくしんで呉れた永松さんは神様みたいに見えた、その永松さんが肝臓がんで警察病院に入院し、亡くなる前に見舞ったときの優しいまなざしと、黄疸が出てい黄色くなってしまった顔が今でも脳裏に焼きついている。何であんなに早く亡くなったのかと今でも悔やまれる。もっと長生きしていて呉れれば、紙芝居がダメになった後も私の兄などはもっと違った人生になっていたかもしれない。まさに「黄金バット」が亡くなってしまったのだ。
 加太こうじさんも時々紙芝居の絵が間に合わなく色つけする我が家に来て「黄金バット」を描く事が時折あった。この人も良くしゃべる人でしゃべりながら良く手は進んであっという間に描き上げる、何時も取り巻きがいてオピニオンリーダー的存在で頭の良さを感じ、いつも来る輩とは別格だった。この人は後に名古屋の福祉大学の客員講師にまでなった人で、小学校出の大学教授といって話題になったことがある。二人の黄金バット作者が我が家には来ていたことになるが、方や挿絵でペン画で精細に描く永松さん、方や筆で簡単に描き上げる紙芝居の加太さん、堅実な永松さん、天才的な加太さんでどちらかというと挿絵の永松さんの方が人格が上に子供の私には見えた。
 永松さんは戦前「黄金バット」の原作者の鈴木一郎さんの所で学生時代に絵が上手なのでアルバイトで手伝っていたと聞いた。その鈴木さんが早く亡くなってしまったので引き継ぎ「黄金バット」を書き続けて人気を博したそうです。だから永松さんが原作者と言っても良いのだが、加太こうじさんは戦後紙芝居で「黄金バット」を描き全国的にヒットした。映画の原作者は永松さんになり、紙芝居は加太さんと二人の原作者が出来てしまった。温厚な永松さんとお喋りな加太さん、お小遣いをくれる永松さんと私などに見向きもしない加太さん、どうしても永松さんの方が好きだった。死ぬもの貧乏と言われるが本当に死んでしまったら全て終ってしまう、生きている時が花だとつくづく思う。