このブログは私の娘達も読んでいる、私の子供のころの話を伝えておきたい。先週中学生と振れ合ったら色々思い出され、追記に今日書けるだけ書いて後はまた時間を見て書くことにしよう。
「中学生ものづくりフェア」で中学生の子供達のものづくりの現場を見て色々な感慨が湧き出てきてしまった。子供の頃の事がいろいろ思い出され、私の子供時代に一世を風靡していた紙芝居が脳裏に浮かんだ。インターネットで紙芝居をキーワードで検索してみた、黄金バットを入力してみたら、懐かしい名前が次々出てきた。黄金バットの原作者が「永松健夫」だったり、「加太こうじ」だったり、「鈴木一郎」という名前が出てきたりする。永松さんの娘のヨウコさんがお父さんが亡くなった後加太さんが原作者を名乗っているのに異議を申し立てたりしたことがあったようです。永松さんが今で言うところの劇画のはしりだと思うのですが単行本「黄金バット」が映画化され、戦後未だ間のない頃原作料が100万円入ったとか聞き、当時としたら大変な大金持ちになったと子供心に思った。永松さんの家は今では「世界のタケシ」なっている北野さんの近所だった、タケシさんは私より7歳下なので小学校、中学校は私の後輩なのだが接点は全く無い。中学が同じという事はタケシさんのお母さんは教育にかなり気を使っていたのが良く分かる、私もそうだが足立四中は当時有名な進学校で私も越境入学した口だったからです。四中は優秀な生徒を排出している、その一人の同級生に「飯島澄男」というノーベル賞候補に挙がる男もいる、カーボンナノチューブを発見した男です。
 私はその頃永松さんの家には毎晩のようにお邪魔した、何故なら私の兄は戦時中に脊髄カリエスを患ってしまい、腰から下が変形して歩行困難になっていた、そのリハビリに永松さんの家まで歩いて行くのにお供して行ったのです、いわば杖代わりに何処へ行くのにも私の母親は私を付き添わせた。7時頃にお邪魔し帰りが11、12時頃になる事がしょっちゅうだった、当時の子供は8時ころには寝るのが当たり前の時分にだ、それに耐えられたのは永松さんの家には出版社から送られてくる少年雑誌「少年画報」「おもしろブック」「冒険王」などが山積みされ読み放題だったのと、時折、梅島駅近辺の蕎麦屋に夜食をとりに行く時がある、外食は当時の子供とすれば夢のような出来事だったのだ。月に何度かご馳走になるのがこの上ない楽しみであり贅沢だった。色んな出版社の編集員がたむろし永松さんもお喋りしながら器用に絵を描いていた。何人もの人を前にし色々な話しをするのだが永松さんの薫陶を得た人は大勢いた。。
私の兄は私より14歳上で少年期に絵描き志望でタイヘイヨウ洋画学校だかに入っていたらしい、その縁で永松さんと知り合ったかどうか定かではないが、永松さんを全てにおいての師と仰いでいた。兄は彩色が得意で当時流行っていた紙芝居画家の色付けを請け負っていた。加太こうじさんの「黄金バット」や「ロボタン」など当時売れっ子画家の彩色を毎日やっていた。貸し元の使いっ走りに後に「忍者武芸帳」で有名になった白土三平さん、本名はたしか岡本登といったと思うがどういうわけか三ちゃんと呼ばれていた。他にもシベリヤ帰りの浜村さんとか色々な人が兄の彩色が出来上がるのを待っていた、当時日雇いの日給がニコヨンとよばれ240円で、紙芝居の色付けは1巻(10枚)が400円で一日何巻かこなしていたので良い収入だった。その下塗りを私の姉が手伝い、当時小学2、3年の私も手伝った、「黄金バット」の題字や仮面を金で地塗りするのだがそれが私の仕事だった。膠を溶かし金粉を混ぜて色作りをする、色はほとんど安い染料を使い、高い顔料のポスターカラーは1部使うだけで、易しいポスターカラーの地塗りは私でも出来た。当時の子供は家の使いや仕事を良く手伝わされていた。